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【聴脳研コラム2026第1回】聴覚の社会的復権:「ヒアリングフレイル」の全貌と社会的・経済的インパクト

第1章:イノベーションの萌芽 — 音楽業界から医療の未踏領域へ

1.1 中石真一路氏の軌跡:異端のキャリアパス

現代の日本において、聴覚ケアのパラダイムシフトを牽引する中石真一路氏の経歴は、典型的な医療研究者のそれとは一線を画している。1973年、東京都小平市に生まれ熊本で育った中石氏は、当初、建築や音楽の世界に身を置いていた1。EMIミュージック・ジャパン(現・ユニバーサルミュージック)などでアーティストのwebサイト制作やデジタルコンテンツマーケティングや新規事業に携わっていた彼は、音響のプロフェッショナルとして、「聴こえやすい音を科学し、心に響かせるためのエビデンスの取得」という課題にキャリアの前半を捧げていた1

音楽業界において、音は「エンターテインメント」であり「芸術」であった。しかし、中石氏は自身の個人的な原体験を通じて、音が持つもう一つの側面、すなわち「生存」と「尊厳」に関わる機能に直面することになる。それは、彼が愛する祖母や父が加齢による難聴を患い、家族とのコミュニケーションが断絶されていく様子を目の当たりにした経験である7

1.1.1 「大好きなおばあちゃん」との断絶と構造的課題

かつては会話の中心にいた祖母が、難聴によって徐々に口数を減らし、笑顔を失い、社会的に孤立していく。家族が良かれと思ってプレゼントした高価な補聴器も、「雑音がうるさい」「装着が面倒」「格好悪い」といって引き出しにしまわれてしまう。家族が大きな声で話しかければ話しかけるほど、祖母は「怒鳴られている」と感じて萎縮し、会話自体を諦めてしまう——。

この「補聴器の拒絶」と「コミュニケーションの崩壊」という現実は、多くの家庭で日常的に起きている悲劇でありながら、有効な解決策が見出されていない領域であった7。中石氏はここで、既存の聴覚ケア産業が抱える構造的な矛盾に気づく。それは、コミュニケーションの問題を解決する責任を、すべて「聴こえない側(高齢者)」に押し付け、彼らにデバイス(補聴器)の装着という努力を強いている点にあった。

音のプロであった中石氏は、ここで一つの仮説にたどり着く。「聞こえない側に努力を強いるのではなく、話す側が『届ける音』を改善することで、コミュニケーションは回復できるのではないか」。この「受信側(耳)ではなく送信側(スピーカー)のイノベーション」というコペルニクス的転回こそが、後の「comuoon(コミューン)」開発、ひいてはヒアリングフレイル概念の構築へとつながる原点であった7

1.2 アカデミアへの挑戦:慶應義塾大学から南カリフォルニア大学へ

この仮説を実証し、社会実装するために、中石氏は安定した音楽業界でのキャリアを捨て、研究の道へと進む決断を下す。2012年から慶應義塾大学SFC研究所の訪問所員として、超高精細音響の研究開発に従事した1

さらに、高齢化社会の課題を包括的に理解するため、2018年よりジェロントロジー(老年学)の世界的権威である南カリフォルニア大学ジェロントロジー学部(通信課程)で学び、加齢に伴う身体変化と社会適応の関係性について学術的な基盤を固めた1。彼の研究アプローチの独自性は、工学的(音響工学)な視点と、医学・社会学的(老年学・脳神経科学)な視点を高度に融合させた点にある。

従来の補聴器メーカーが「鼓膜にいかに大きな音圧を届けるか(音圧レベルの確保)」というハードウェアの性能向上に注力していたのに対し、中石氏は「脳がいかに音を処理し、言葉として認識するか(語音明瞭度の向上)」という認知プロセスに着目した。これは、後に彼自身が「聴脳科学(Hearing Brain Science)」として体系化する知見の土台となった2

1.3 創業:ユニバーサル・サウンドデザイン株式会社

2012年4月、中石氏はユニバーサル・サウンドデザイン株式会社を設立する1。社名には、「音のデザインを通じて、年齢や障害の有無にかかわらず、すべての人が対等に関われるユニバーサルな社会を築く」という理念が込められている。この創業は、単なる音響機器メーカーの立ち上げではなく、聴覚ケアにおけるビジネスモデルを「B to C(本人への補聴器販売)」から「B to B to C(医療機関・介護施設・行政機関・教育機関への対話支援システム導入による対話支援)」へと転換させる挑戦の始まりであった。

【第2章:ヒアリングフレイルの理論的枠組みと医学的根拠】へ続きます

筆者:剣崎 雅人(けんざき まさと)
社会課題とテクノロジーの交差点を取材する専門記者。特に、超高齢社会における社会インフラの欠陥や構造的なリスクに鋭く切り込むことを得意とする。従来の枠組みに収まらない新しい解決策やイノベーションに焦点を当て、その社会的・経済的インパクトを深く分析する論調が特徴。