【聴脳研コラム2026第2回】聴覚の社会的復権:「ヒアリングフレイル」の全貌と社会的・経済的インパクト
目次
第2章:ヒアリングフレイルの理論的枠組みと医学的根拠
2.1 フレイル概念の拡張と再定義
「フレイル(Frailty)」とは、日本老年医学会が2014年に提唱した概念で、健康な状態と要介護状態の中間に位置する「虚弱」の状態を指す。身体的フレイル(ロコモティブシンドローム等)、精神・心理的フレイル(うつ、認知機能低下)、社会的フレイル(独居、閉じこもり)の3つの要素から構成されるが、中石氏が提唱した「ヒアリングフレイル」は、これら全ての要素にまたがる、より根源的なリスクファクターとして位置づけられる3。
中石氏は、「難聴を放置することがフレイルの起点(ゲートウェイ)になる」と警鐘を鳴らす。聴力が低下すると、以下のようなカスケード(連鎖的な悪化)が発生し、高齢者の生活の質(QOL)を急速に低下させる。
- コミュニケーションの困難(Communication Breakdown):
会話が聞き取れないため、何度も聞き返すことになる。相手に申し訳ないという心理的負担や、会話についていけない疎外感から、自発的な発話を控えるようになる。 - 社会的撤退(Social Withdrawal – 社会的フレイル):
外出先でのトラブル(駅のアナウンスが聞こえない、病院での呼び出しに気づかない)を恐れ、外出を控えるようになる。友人との交流や趣味の活動が減少し、社会的孤立が深まる。 - 認知負荷の増大と脳機能の低下(Cognitive Decline – 精神的フレイル):
音の処理に脳のリソースが過剰に割かれる(認知的負荷)結果、記憶や思考に使うべきリソースが枯渇する。また、聴覚刺激の減少により脳(特に側頭葉)が萎縮する。 - 身体機能の低下(Physical Frailty – 身体的フレイル):
外出頻度の減少に伴い、運動量が低下し、筋力低下や歩行機能の衰えを招く。
この一連のプロセスを「ヒアリングフレイル」と名付け、早期発見・早期介入の重要性を説いたことは、公衆衛生政策上、極めて重要な意味を持つ。なぜなら、難聴は「年のせい」として諦められがちだが、フレイルの段階であれば、適切な介入によって「可逆的(元の状態に戻せる)」あるいは「進行を遅らせる」ことが可能だからである3。
2.2 Lancet委員会の衝撃:認知症の最大リスク因子としての「難聴」
中石氏の主張を強力に裏付け、ヒアリングフレイル対策を医学的・経済的な急務として位置づけたのが、世界五大医学雑誌の一つである『The Lancet』が発表した認知症予防に関するレポートである。
2.3.1 「予防可能な45%」と不動の最大リスク
2024年の報告において、Lancet委員会は認知症の予防可能なリスク因子を12から14へ、予防可能な症例の割合を40%から**45%**へと上方修正した。その中で「難聴(Hearing Loss)」は、新たに追加された「高LDLコレステロール」と並び、7%の寄与度(Population Attributable Fraction)を持つ中年期の最大リスク因子として再確認された1。
以下の表は、2024年版レポートに基づく主要なリスク因子の寄与度である。
| ライフステージ | リスク因子 | 認知症発症への寄与度 (PAF) | 備考 |
| 若年期 | 教育歴の低さ | 5% | 認知的予備能への影響 |
| 中年期 (45-65歳) | 難聴 (Hearing Loss) | 7% | 中年期最大のリスク(高LDLと同率) |
| 高LDLコレステロール | 7% | 2024年新規追加 | |
| うつ病 | 3% | ||
| 外傷性脳損傷 (TBI) | 3% | ||
| 運動不足 | 2% | ||
| 糖尿病 | 2% | ||
| 喫煙 | 2% | ||
| 高血圧 | 2% | ||
| 肥満 | 1% | ||
| 過度の飲酒 | 1% | ||
| 高齢期 (65歳以上) | 社会的孤立 | 5% | 難聴が引き金となるケースが多い |
| 大気汚染 | 3% | ||
| 未治療の視力低下 | 2% | 2024年新規追加 |
出典: Lancet Commission 2024 report 4 より作成
このデータは、喫煙(5%)やうつ(4%)、高血圧(2%)といった、従来重要視されてきた健康リスクを「難聴」が上回っていることを示している。これは、「難聴への対策を行えば、理論上、認知症症例の8%を予防または遅らせることができる」ことを意味し、世界の医療・福祉関係者に大きな衝撃を与えた。
2.2.2 メカニズムの解明:なぜ耳が脳を壊すのか
なぜ難聴がこれほどまでに認知症リスクを高めるのか。中石氏の講演や関連研究10、およびLancetの分析では、主に以下の3つのメカニズムが相互に作用していると考えられている。
- 認知的負荷(Cognitive Load):
聞き取りにくい音を聞き取ろうと脳が過剰な努力を強いられる結果、短期記憶や他の知的作業に回すべき脳のエネルギーが奪われる。会話の内容を「推測」することにリソースが使われ、内容を「記憶」し「定着」させることが疎かになる。 - 感覚剥奪と脳の萎縮(Sensory Deprivation):
聴覚刺激が長期間減少することで、音声を処理する脳の部位(聴覚野)が使われなくなり、廃用性の萎縮が進む。さらに、その萎縮が記憶を司る海馬や他の脳領域へと波及し、全般的な脳機能低下を招く。 - 社会的孤立(Social Isolation):
コミュニケーションの不全により社会的な交流が減少し、脳への知的・感情的刺激が激減する。孤独感はコルチゾール(ストレスホルモン)の分泌を促し、神経細胞にダメージを与える。
中石氏が「ヒアリングフレイル」を通じて訴えているのは、まさにこの悪循環(スパイラル)の遮断である。特に、UK Biobankのデータを用いた研究では、難聴があっても補聴器等を使用して聴覚補償を行っているグループでは、認知症リスクの上昇が見られなかったという結果も報告されており11、技術的介入の有効性が強く示唆されている。
筆者:剣崎 雅人(けんざき まさと)
社会課題とテクノロジーの交差点を取材する専門記者。特に、超高齢社会における社会インフラの欠陥や構造的なリスクに鋭く切り込むことを得意とする。従来の枠組みに収まらない新しい解決策やイノベーションに焦点を当て、その社会的・経済的インパクトを深く分析する論調が特徴。